ミュンヘン7日目

ダッハウ収容所に見学へ。
強制収容所は思想の異なった人を閉じ込める為のものだった。ダッハウユダヤ人専用に使われたわけではなかったが、収容所のモデル(見本)となった。若いSS隊員は、ここの収容所で見習いをしていた。彼らは18歳くらいが多く、後にアウシュビッツなどで出世していった。衛生状態も最初はひどくなかったが、段々ひどくなっていった。最もキレイな収容所として有名になり(悪い意味でも有名に)、ちり一つ葉っぱ一つ残さないほどだった。それも強制されたものだった。シーツはチェック柄が隣のベッドと合わないと罰が下った。おわんに水滴一つ残さないようにされていて、守れないルールを定め、破ると罰や刑として殺人などが行われた。最低限の物しか与えられず強制労働にかり出された。食事も粗悪なパン200gなどを食べていた。摂取するカロリー以上の労働を強いられた。朝と夕に点呼を取って土木作業などの労働をしていた。作業場までは1時間くらい走っていった。医者は当然いなかったし、薬もないに等しかった。働けなくなると殺された。ここではないが、耐寒や病気などの人体実験も行われた。ここにいた人(SSや医学治験者)はアウシュビッツに行きたがった。低圧実験も空軍の為に行われた。ヒムラー等の高官が来ると髪の毛のある健康的な人間が集められジャーナリスト等に紹介された。1938年までは収容者用にリビングがあり、異常な程の清潔ぶりは押し入れの中にもおよんだ。コップの場所なども決められていた。食事も100kgのナベを2人で運んでいた。落としたら、その食事はなしになった。くつは1サイズしかなく、服は青と白のストライプ、ワッペンで政治犯精神病者、亡命者、同性愛者、浮浪者など区別していた。さらにランク付けして2度目に入った人間やユダヤ人などを区別し、名前は使われずに数字で呼ばれた。私物は認められなかった。ダッハウは14歳頃から収容された。働けない子供や老人は最初からガス室に送られた。ここで産まれた子は殺されるか隠された。収容所には2タイプあって、1つは労働をさせる所、もう1つは殺される所。扉にARBEIT MACHT FREI(働けば解放してやるぞ)と刻まれている。ここは本当に出ることができた。ここで死んだ人はあまりに数多い為、完全に焼けないまま埋められた。45年にアメリカ軍に解放された時にその現実に直面することになった。火葬場はゴミ処理場として会社と契約されていた。死体を焼くのは同じ収容員だった。チフスが流行って多くの人間が死んだ。本当にあった話だが、「やっと死ねて苦しまずによかった」と言ったら生かされた(助かった)名目として外国人をドイツ人から守る為、罰としてムチ打ち(打たれる人が数を数える)やその人の名誉や自尊心を傷つけることが多かった。また36時間立たされるという罰もあった。罰は連帯で行われた。処刑は少なく罰で死んだ人が多い。男性隊員は男性収容所を監視し、女性SS隊員は女性を監視した。SS隊員は自分の為に収容所の写真を撮った。


ダッハウ収容所かミュンヘンに戻り、夕食には先生と男性陣2人と肉料理の店に行く。kalbshaxeという子牛のすね肉を食べた。とても美味しかった。ビールも2杯飲み、隣のテーブルのイギリス人とも会話を楽しんだ。この人達はサッカーの試合の帰りだったらしく、すっかり上機嫌だった。スピリットで胃の満腹感をより帰宅した。